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何をもって「読んだ」とするのか

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「記事を読んだ」「本を読んだ」
果たしてそれは、本当に読んだといえるのでしょうか。
社会問題がコンテンツと化している昨今、みんなの言う「読んだ」は、読んだとはいえないように感じます。

 

 わたしからすれば、文中で言われていることの本質だとかに気づけてようやく「読んだ」と言えます。

「みんながああ言っているからこうだ」とか考えるのではなく、自分の言葉で説明できるようになってなんぼです。
文字を読むことぐらい誰にでもできるでしょう。その裏にあるものに気づけなければ「読んだ」とは言えません。

短文にしろ長文にしろ、やることは変わりません。
何を言っているかに着目し、自分で考察する。
情報量が多いにしろ少ないにしろ同じ。論理構造を理解し、自分の意見を持つだけです。

最近の事例ではツイートまとめ記事。
あれは従来までの長文とちがって短文の寄せ集めですが、根本は全く同じ。
断片化した情報から本質を見抜き、何を言っているかを考える。これが「読む」ということです。

 

コメント欄に惑わされるようではまだまだ

自分では読んでいてすごく共感できたけど、記事のコメント欄にネガティブなことが書かれていた。
みなさんにはこういう経験がおありでしょう。
そういうときにコメント欄を気にし、自分の考えを変えてしまってはいけない。
コメント欄に惑わされず、自分の意見を持つようにしましょう。

「あのひとはこう言ってるけど、わたしはこう思う」
これ、すごく大事です。
みんなが誰かを叩いているからといって、あなたがそれに参加する必要はなし。
いじめが間違っていると気づいたならば参加する必要はありませんし、みんなが間違っていると思うのならば自分が正しい方向にいけばよいのです。

そもそもの話、自分の意見が正しいかどうかを他人に聞く時点で間違っています。
意見が意見である以上、それはあくまでもあなたのもの。
ブラックかどうかもあなたが決めることですし、読んだ本がいいかどうかもあなたが決めること。
オピニオンを他人任せにするということ自体がおかしいのです。

こう考えると、読書というものが奥深いように感じるでしょう。
そうです。読むという行為は意外と深く、他人と議論したり自分で考えるのまで含めて読書です。

 

ただ数をこなせばいいってもんじゃない

たまに「○○冊読みました!」みたいなことを言うひとがいますが、それは本当に読んだといえるのでしょうか。
強調すること自体は否定しませんが、目を通しただけで満足してはいないでしょうか。
読んだ後に考えなければ何にもならないでしょう。ただ数をこなせばいいってものではありません。

本を読んであなたはどう思うのか。
読み終わったら考える。これの繰り返し。
せっかくお金や時間をかけて読むのですから、できるだけ多くを得たいものです。

この記事を読み終わったら、文中で何を言いたいのか考えてみましょう。
単に読書に限らず、リテラシーまわりのことだと気づくはずです。
記事を読むのであれば、何を言っているかについて考える。
それをやってようやく数こなすことが生きてきます。