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長時間やるのがエライわけではない 「やることが重要」思考を捨てろ

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キーボードに飲み物をこぼした一件がすごすぎて、乏しい洞察力でも10記事ほど書けそうです。笑

今回は長時間やることへの考察。

キーボードに飲み物をこぼしたときの生活を見ていると、「長時間やることで解決」というのはクセになっていたように思います。
今思えば、そういうのが定着化した時点でアウトだろうと。
長時間やることが前提になってしまうというのは、注意すべきフェーズでもあります。

 

たしかに、集中してやるのが大切という時期があるのは事実。
最低限のことをやればいい時期と、集中して朝から寝る直前までびっしりやるべき時期があることについては否定のしようがありません。
今の自分の8割を作っているのは、今まで過ごしてきた時間のうちの2割ぐらい(パレートの法則)というのは誰もが感じることでしょう。
そのため、集中した2割にあたる時間を再現しようというのはごく自然な発想です。

しかしながら、毎日がそれというのはうまくいかないもの。
過酷な条件下で長時間やるのはかなりの負担がありますし、また長時間やることが当たり前になりがちです。
そのうち度を超えて体に負担がかかるようになり、長時間やることでしか解決できないということになってしまう。
そうして体を壊してしまってはそれこそかなりの損失。動けないということによるデメリットはデカいです。

そういうわけで、どこかで短時間集中型に切り替えなければなりません。
切り替えるにあたっては「やることが重要」という思考を捨てる必要がありますが、これがなかなかに厄介。
今まで長時間やってきたことを短時間にするというのは粗さが気になってしまうもの。
それに加え、やることによって不安を解消できる部分も少なくないので、染み付いた「やることが重要」思考からは逃れるのがむずかしいのです。

わたしたちは目の前に存在するもの、目に見えるものに対しては安心感をいだきます。
その一方で、見えないものについては不安になるもの。
やることによって不安が解消できるというのはまさにそういうもので、効率化するにあたってはある程度の思い切りが必要になります。

 

「集中すればできる」を信じよう

長時間やることが当たり前になってきた場合、そろそろ次のことを考えるべきでしょう。
一日の大部分が同じことに費やされている場合、効率化できる部分がそこかしこになるはず。
こういうときこそ理詰めでやるべきであり、徹底した効率化・合理主義によって短時間集中型に変えることが重要。
ただ、精神的なものが重要というのも否定のしようがありません。

まず最初にやるべきは、短時間集中型でも問題ないと信じてしまうこと。
集中することを受け入れるとでもいいましょうか。
人間の集中力なんて1日じゅう続くものではありません。長時間やり続けるのが普通というのは、どこかに短縮できるポイントがあるということの裏返しです。
そのため、マニュアル化や自動化、テンプレートの利用をすればかなりの時短になります。

作業ゲーになったのならばより短時間でやる術を覚える、あるいは自動化するのが吉です。
正しくアウトプットできることを確認したのであれば、どんどん効率化していくべき。
そうして要点をおさえた立ち回りを覚え、ポイントとなる部分でしくじらないぐらいにでもなればシメたものです。

最終的なアウトプットが粗くなりそうであれば原因を突き止めたり、徹底したマニュアル化で対処。あるいはそこだけ細かくやる。
長時間やってチェック回数を上げるというのは考えなくてもできるでしょう。
そこで科学の出番で、論理的思考力の使いどころです。

 

やることが重要ではない

時短でもうまくいくと信じて取り組むにあたり、「やることが重要」という考え方はなるべく抑えるようにしましょう。
その分アウトプットと真正面から向き合うようにし、さらに効率化できないかを考える。
これは論理的な正しさを信じるのと似ていて、結果主義を受け入れるということでもあります。

やることで不安を解消するのとちがい、論理的な正しさを信じるというのはむずかしいです。
たとえばむずかしい数学の問題があったとして、解けそうな手応えがあっても、最後まで解く気にはならないでしょう。
「この解き方なら解けそう。だけど、間違っているかもしれない」というのは誰もが持っているもの。
論理的には正しくても信じるのがむずかしいというのはよくあることで、それによって全力を出せないひとが多数存在します。

対策としては段階的にやっていくこと。
いきなり全部を効率化して短時間でというのはむずかしいので、まずは小さなところから効率化・自動化していくのがいいです。その過程ではPDCAサイクルと何回も顔を合わせることになるでしょう。
こういうのはある意味で「後でラクをするために、今、苦労する」みたいなものがあり、メタ的な視点が要求されることも少なくありません。

 

長時間への依存は危険

すでに他でも言われているように、長時間への依存はひとをダメにします。
長時間やらなければならないというのは一種のリミッターであり、疑いの目を持たなければ一向に解決しません。

短時間集中型にし、適当なところに休憩を挟むようにすれば、アウトプットも自然とよくなります。
一時的に長時間化するときがあっても、やがては短時間にするべきでしょう。
それによって得られる時間は別のことに使えますし、一コマ一コマに集中できるのはいうまでもないことです。

このようなメリットがあるにもかかわらず顔を背け、長時間のハードワークが当たり前となっている現状に疑問を持たないと、生産性は永遠に上がりません。

面倒くさいというのはネガティヴな感情ですが、効率化をうながす要素でもあります。
やることそのものが目的化しているとなかなかに気づけないもので、怠け心がかえって効果的というもの。
これはプログラマが得意とする点で、マジメ君の苦手とするところです。

 

まとめ

雲をつかむような話で、わかりにくいと感じた方もいるでしょう。
ここで言っているのは

  • 常に効率化を考える
  • 効率化された方法を信じろ

ということで、特に後者については苦手とするひとも多いのではないかと思います。
また信じろと言っている一方で疑いの目を持てとも言っているので、バランス感覚も欠かせません。
ここがまたむずかしく、両者を共存させるというのは予想以上の難易度があります。

わたしたちは直感的に正しいと思うことができればすぐに信じるものですが、直感的なものがないとなかなか信じることができません。
しかし信じることによって効率化がなされるのも事実であり、そのような場合には安心することは不要。重視すべきは安全の方です。
論理というのは目に見えないものばかりで、信じることができないというひともいることでしょう。
効率化においては目に見えないものの方が重要で、これができるかどうかというのは非常に大きいです。

こういうのにもっと早く気がついていれば、ノーパソも無事だったんでしょうね。
長時間のハードワークに対して疑いの目を持てないというのも、ムリな生活の原因としてあるわけですし。
洞察力に欠ける自分でもかなりのことを学べましたが、これが授業料に見合うかといえばそうでもない。
効率化に目がいかない、長時間が当たり前となっているあたり、まだまだ自分は甘いなぁと感じます。

一見してわけのわからない離散数学がどこに役立っているかといえば、自動化や効率化。
面倒くささを解消するために面倒くさいことをやっているという構図ではありますが、そのようなものによって生活が便利になっているのも事実です。
便利な生活を実現するにはどこかで苦労する必要があり、それに絶えられるかどうかは生産性の差に直結します。忍耐力というのはここでも重要で、面倒な勉強や地道なデータ収集によって科学するのがのちの利益につながるのです。

 

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