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なぜブログを書いていると内容が被ってくるのか 本質を理解せよ

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ブログで記事を書いていると「あれ?これ前にも書いたよね」みたいなことがしばしばあります。
たとえ扱う題材がちがうとしても、文章を書き進めるうちにだんだんと過去記事に似たものが出てくることも。

ただ、こういうのはある意味で必然的だと思います。
なぜなら、物事の本質的な部分は変わらないから。
一見して全然ちがうものでも、特性が似通っているものは結構あります。

 

記事を書くにあたってはさまざまなものを題材にします。
このブログでも学校教育、自己啓発、読書など、テーマはかなり広いです。
それでも似通った部分はかなり出てくるもの。

 

www.murasakai.net

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この3記事でも、言っていることはだいたい同じです。
どれも「名前や風潮に惑わされるな」ということを言っています。
題材はちがいますが、中身はどれも変わりません。

記事の書き方としてはまず最初にテーマそのものについて大雑把に取り上げ、つづいて本質的な部分や論理構造に着目する形となっています。
そして本質的な部分では記事間で共通するものが出てきている。
ということは、たとえテーマがちがっても本質は同じということです。

このブログの書き方はどの記事もだいたい同じようなものですので、探せば他にもいろいろと出てくるでしょう。
どの記事も資本主義や個人主義といった「道具」を使って書いています。
分析してみるとテーマ間で共通部分が見えてくるもので、そういう構造をしているんだなぁとわかります。

 

モノがちがっても本質は同じ

扱うものが変わっても本質は変わらないというのは少なくありません。
一見して別のものに見えたり、特別な呼び方が付いているからといって、性質に差がないというのは多いです。

奨学金といっても実際には借金で、骨までしゃぶられてしまう。
あくまでもお墨付きがあるだけで、実態はフツーに借金するのと何ら変わらない。ただ単に特別扱いされているだけ。
こんな感じで、記事を書いている側としてはかなり冷ややかに見ています。

呼び方が変わっただけで反応が変わるというひとは思いのほか多いです。
たとえばオームの法則といえばみんな物理、電気回路というものをイメージしますが、あれは基本的には微分や比例です。
そこに非線形だの温度だの複雑なものが絡んできますが、基本的には高校数学で出てくるようなものだらけ。
なのにみんな物理学は物理学、数学は数学と分けてしまいます。

そうしてオームの法則が単に物理学や電気回路学だけのものとしか考えられなくなってしまう。結果として本質的な部分はあんまり着目されず、他に生かせない。
実際には電気回路以外にも使えるのに、「それは物理の定理だ」と視野を狭めてしまっています。

教科書にはむずかしい用語や数式が並んでいますが、きちんと理解すれば本質的な部分が見えてきます。
そこを理解しようとしないから呼び方のちがいで反応が変わるであって、言い換えができるようになれば呼び方が変わってもそこまで反応は変わらないはずです。

物理学にはほかにもいろいろと実生活に応用できるものがあり、半導体の動作原理からスマフォの充電器まで、さまざまな技術が物理学以外のところに転用できます(詳細はまた別の記事で)。
単に専門用語の並べ方を覚えるだけではなく、「これってつまりどういうこと?」みたいに考えれば、他のこととの共通部分がボロボロ出てくるものです。

言い換えができる、共通部分が出てくるというのは、本質的な部分が同じであることのあらわれです。
細かな部分ではところどころちがっていても、だいたいの性質は他のものと変わらない。
あらゆる物事は100パーセントでないにしてもいくらかは共通しているところがあります。

エネルギー保存則あたりは別にエネルギーじゃなくても、お金とかいろんなものに当てはまります。
つまりは物理だろうが経済だろうが同じ原理にしたがって動いているわけです。
マスコミではいかにもな感じでそれっぽく報じられますが、実質的には同じようなもの。
背景には似たようなものがあり、単に専門用語が割り当てられているだけというのも少なくありません。

 

むずかしいことをやさしく

 

 

記事を書く上では、むずかしいことをやさしく言いかえるというのは欠かせません。
むずかしいことをむずかしく書いたのでは、それは手動でワードサラダするのと大差ないでしょう。笑
むずかしいことを簡単に言い換えるからこそ個人のメディアであって、ただ単に専門用語を羅列するだけならわざわざ個人でやる必要はありません。マスコミでおkです。

お金の話なんて噛み砕けば幼稚園児でもわかるでしょう。
さすがに数学的なものはムリですが、原理的なものについてはごく簡単に説明できるはずです。
「欲しいひとが増えれば値段が上がる」だとか「時間には値段がある」だとか、噛み砕こうとすればキリがない。
そういうのがあまりにも少なすぎてマイノリティになってしまっています。

まあ、記事には読者対象というものがありますからね。
そこまでべき論で押し通すものではないでしょう。
ただ、対象とする読者層と記事の内容に乖離があると意味がないというのは変わりません。

 

本質を見抜け

むずかしい専門用語が並んでいて、太字もない状態だと、どうしても「このひと、本当にわかっているのかなぁ...」と思わざるをえません。
やさしく言いかえられるというのは本質を理解していなければできないことです。
専門用語を並べるのなんてよさげな本をコピペでもしておけばできるでしょう。
勉強や解説なんて言い換えてなんぼの世界です。

本質を見抜けるかどうかは、あらゆるところに影響が出てきます。
それは洞察力と言っても過言ではないでしょう。
勉強の効率に差が出てくるのは当然ですし、キ○ガイでおもしろい言い換えができるかどうかといった部分にも露骨にあらわれます。

おバカな記事を書けるひとというのは、その本質を理解しているからこそツボがわかるのです。
読ませるような文章を書くひとはその構造だとかを理解しているもの。
書き手本人はあまり口にはしないものの、本質については人一倍理解しているはずです。

本質を理解するにあたっては、数をこなして直感的に理解するのが手っ取り早いでしょう。
理論のうえでは理解しづらいものでも、実際にあつかってみるとわかりやすいもの。
理系の学生実験なんかはそんな感じで、実験を通して覚える部分が大きいです。

本質を理解することそのものに慣れると、瞬時に本質を見抜くなんてのもできるはず。
もちろんそういうのはフィーリングによる部分も大きいですが、事例を知っておくことで補える部分も多いです。
ケーススタディの重要性というのもその辺りにあって、場合分けから学べることも少なくありません。

 

まとめ

記事を書き続けるうちに共通した内容が出てくるというのは不可避なことです。
多くの物事が似たような原理に沿って動いているので、「なんだこれ、あれと同じじゃん」みたいなのは当然のように起きます。
過去記事と同じようなことを書いてしまうのも避けようがなく、それはそれでデータとして残しておいてもいいのではないでしょうか。
完全なコピペにさえ気を付ければどうということはありません。

ブログを書くことで本質に気付けたなら、それは大きな収穫。
あとはそれを別に転用してやればいいわけで、「これは物理の法則だから」といちいち区別しなくてもよいのです。
極端な話、「人生で大切なことは充電器から学んだ」みたいなのでも問題ありません。
そのようなおもしろい記事を書けば個性になることまちがいなしです。

 

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