2記事ほど、英語やプログラミングの教育について批判的な記事を書きました。内容としては問題提起のようなもので、言いたかったのは教育が消費物化している現状についてです。
記事の内容について、「勉強がムダだとかバカじゃないの?」と思ったひとも少なくないでしょう。
シェアされたときのコメントを見るに、そのようなひとが少なくありませんでした。
今回はそこらへんを解説していきます。
普段の生活について書いたときもそうでしたが、勉強そのものが目的化してはいけないという考え方に疑問をもつひとは一定数います。
これについては勉強というものへの考え方のちがいが原因でしょう。
勉強そのものが目的化していれば違和感を感じるはずですし、勉強の先にあるものを見ていれば違和感はそこまでなかったはずです。
わたし自身としては勉強は手段であり、目的ではありません。
目的達成のための知識を身につけるのが勉強であり、他にもひとに頼んだりとやり方はいろいろあるわけです。他にも、勉強によって知識を得ればボッタクられることも避けられるでしょう。
大勢のひとが勉強に対して盲信しているなか、わたしは単なる道具止まりであり、ドライな考え方で望んでいます。
過度に期待することもなければ、完全なゴミと考えることもありません。視点としてはむしろニュートラルなものです。
別の言葉で言えば、わたしのような存在はナマケモノといっても過言ではないでしょう。
アリではなくキリギリス的な考え方です。
身の回りを見てもキリギリス的な考え方ができるひとはあまりおらず、またできる場合については親が何かしらの商売をやっているひとがほとんど。
幸いにも環境に恵まれていたため、そのような視点も学べました。
中立的な視点から見るというのは思いのほかむずかしく、できるひとは案外少ないです。
異なる考え方を学ぶからこそ客観的に考えることができるのであって、ひとつの見方しかできなければその分アンバランスな見方になってしまいます。
もちろん完全に客観的な視点というものも存在しないわけですが、視点を増やすことでバイアスは小さくしていくことができます。
勉強や努力についてもキリギリスのような視点が欠かせないのは事実であり、そのような視点なしにはあんな記事は書けません。
やることそのものが目的化した時点で投資ではない
勉強については多くのひとが投資という認識を持っているわけですが、はたしてそれは本当に投資と呼べるのでしょうか?
やらされての勉強や満足感のための勉強は少なくなく、「○○の知識が必要だから勉強する」というほうがめずらしいです。
お金と時間を投じて勉強するからには、何らかのリターンがあるはずです。
しかしながら、多くのひとは勉強そのものについて交換や利回りといった考え方を持っていません。
勉強に費やしたお金と時間があれば、何か他のことができるでしょう。
このような視点を持てるかのちがいは大きく、特に時間という点で見たときには結構なちがいが出てきます。
多くのひとにとって、勉強することは目的です。
しかし、楽しむことそのものが目的化している時点でそれはもはや投資とは呼べず、単なる消費でしかありません。
単に勉強するといっても、楽しんだり安心感のために勉強するのと、目的達成のために勉強するのとでは全然意味がちがいます。
充実感のために勉強するのは消費でしかないのですが、これを受け止められるひとは少ないです。
勉強にお金や時間を使うというのは、人脈やお金が手に入るチャンスを捨てるということでもあります。
かなり厳しい考え方ゆえに、言葉を聞いただけで拒絶するひとは少なくありません。
勉強もただの手段にすぎない
勉強をひとつの手段とみなす考え方には批判もあるでしょう。
しかし勉強そのものが目的化してしまうと後には何も残らず、単にお金や時間を使っただけとなってしまいます。
自分で勉強するのには少なくとも時間はかかるわけです。目的達成のために勉強すると考えれば、当然のようにその他のやり方もあります。
たとえば、「今度おごるから授業で教わったことを教えて」と頼めば、勉強する分の時間を別のことに使えるわけです。
アリの考え方でいえばこれは完全な悪といえますが、キリギリスの考え方でいえば必ずしも悪いことではありません。
もし自分にやりたいことがあり、何としても時間がほしいというのであれば、このようなやり方を取るべきなのです。
大学におけるサークル活動にはこういうのが結構あります。
授業への出席を優先すれば単位を取れますが、その分サークル活動に使える時間は減ります。
下手すれば「練習時間が足りなくて大会で優勝できなかった」ということにもなりかねないでしょう。
大会優勝を目的としているひとや話のネタがほしいひとにとって、「学生は勉強すべき」という考え方はジャマでしかないのです。
ナマケモノでも問題なし
つまるところ、ナマケモノでも問題ないじゃないかというのがわたしの意見です。
必要なことだけを徹底して勉強し、そのほかはマイナスにならない程度に勉強する。悲惨な事件さえ起こさなければ問題ありません。
八方美人になろうとして、お利口さんになろうとして、お金と時間を投入する。
たしかにこれはひとつの考え方としてありでしょう。
しかし資本主義や合理主義の考え方をもつわたしとしては、どうもそのような考え方は受け入れづらいのです。
クソ真面目にお勉強をしたり、言われたことに従うだけというのは誰かの下請けにはなるでしょうけど、それで後悔が残ったら元も子もありません。
それよりは必要なことだけ勉強してデータの下請けになった方がマシです。
そしておもしろいのが、このような考え方を持つとかえって勉強に積極的になるということ。
たとえば大学については、単に学歴のために行く場合にはそこまで勉強に一生懸命になりません。みんなと同じカリキュラムで、簡単に単位が取れる授業を選ぶでしょう。
ところが大学を情報商材としてとらえた場合、一部の科目だけをアホみたいに勉強するということが起こりえます。
使えそうな知識があったら好き嫌い問わずガリガリ勉強する。みんなとちがう授業の取り方でも全然気にしない。少なくとも使えると思った科目に関しては、ある期間だけ狂ったように勉強します。
もちろん研究室にいるかどうかなんて知ったこっちゃありません。ヘイトの分散なんてどうでもいい。陰口なんて叩かれた者勝ち。徹夜なんて当たり前。村八分なんて漢の勲章だ。
ヴィジュアル的には真面目君とゴミ人間が合わさったような、何とも奇妙な存在に見えます。
必要だと感じたらキ○ガイのごとく勉強し、必要性を感じなければサボりまくる。
これは学生の理想像とはかけ離れたものであります。
一般に言われる理想的な学生はまさにアリのようなコツコツ教徒であり、従順さだらけです。その考え方は勉強そのものが目的化してしまっています。
意識の高い人々に教育が消費されるという現状
結局、勉強することそのものが目的化するというのは、教育を消費していることに他なりません。
そして勉強を投資とまちがえて消費するのは、一般に意識高い系と呼ばれるひとたちです。
むずかしいように見える勉強そのものがすごいと思い込み、自分では自己投資したつもりになっていても、結果としては何一つ生み出していません。
勉強すること自体が正義であるかのようなひとは、英語の勉強はもちろんのこと、不要なプログラミングもお勉強します。
あくまでも努力することが良いのであって、結果なんてどうでもいい。お金や時間を使いまくる。ああ、勉強することはすばらしい。結果主義?そんなもの捨ててしまえ。
このようにして教育なるものは消費されていくわけです。お金や時間を吸い取られるのは言うまでもないでしょう。
こういうのは受け入れづらい考え方ですが、受け入れることができれば「要領のいい勉強」も可能になります。
勉強を目的としてとらえてしまうとそこがゴールになってしまい、そこまで効率が上がるということもありません。
一方勉強を手段としてとらえた場合、どこをどう勉強すれば最短で覚えられるかということを考えるので、結果として効率は上昇します。
ゴールではなく通過点としてとらえることが、実は効率化につながります。
もっとも、勉強そのものを楽しむにあたっては効率なんて気にしないでしょうけど。笑
まとめ
勉強というのは手段です。これを満たさなければ投資とはなりえず、時間やお金を食い尽くす邪魔物でしかありません。
にもかかわらず努力や勉強そのものが目的になっているひとは意外に多く、英会話塾なんかを見てみると結構います。
勉強が目的化してしまうと、英語やプログラミングの塾に行くのも消費にしかなりません。
英語やプログラミングを勉強することそのものがすごいと錯覚するようになり、何のためにしているかということについて忘れてしまいがちです。
そして勉強そのものがすごいと思ってお金や時間を消費するというのは、本質的には人々が忌み嫌う情報商材と何ら変わりません。
受ける側が消費と自覚しない分、余計に厄介です。
またプログラミング教育の義務化についても、受ける側に主体性や目的がない以上はそこまでの効果を発揮することもありません。
流行に流されるスイーツ(笑)が、数字やアルファベットだらけのものに積極的になるでしょうか?ならないですよね。
さらには教える側のやる気も考慮すると、期待するような効果が出るのは絶望的です。
それで論理的思考力がつくのには無理があります。
教育というものは権力者によって作られます。
そのため、権力者に有利になるように作られるのはごく自然なことでしょう。
ビジネスとして教育がされることもめずらしくはありません。
見え方には気を遣いますし、その内容が自身の利益に結びつくようにするのもわかっていることです。
それを考えれば、キリギリスのようになるのもあながち悪くはないといえるでしょう。
キリギリスの視点を持てないと、どんどん搾取される構造に巻き込まれます。
そして悲しいことに、現実には情報商材を情報商材と気づけないひとが大勢いるのです。
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