英語についての記事がバズってて思うことがあります。
それは「英語ってそこまで特別なものなの?」ということ。
ただのツールだというのに、なぜそこまでマジメになれるのでしょうか?
個人的には疑問で仕方ありません。
そもそもの話、英語なんて出来て当たり前であって、わざわざ特別視されるという方が不思議です。
特別視されるというのは英語がまだまだ普通の存在となっていないことの裏返しであり、インフラという言葉とはかけ離れています。
わたし自身は「英語=ただのツール」ぐらいの認識なのですが、どうやらそれは他のひととはちがうようです。
たとえ英語ができたとしても稼ぐノウハウがなければどうにもならない一方で、現実には英語への盲信が存在します。
英語というのはわざわざ時間とお金を捨ててまで勉強するものではなく、使いながら覚えていくものでしょう?
必要であれば勉強する。ただそれだけの話なのに、やたらとみんな意識高いなぁと感じるばかりです。
意識高い系のわたしからしても、英語というただの道具にリソースをぶっこむ大衆の方が意識が高いようにしか思えません。
そして勉強関連の商材は、そのような「意識超高い系」のひとたちがいることで売れるものなんだなぁと感じます。
英語の使い道
英語ができなくて問題になるとしたら、コミュニケーションと情報収集ぐらいでしょう。
前者は人対人のやりとり、後者は言語空間的な意味でのハンデにあたります。
コミュニケーションについては会話と文章について一定レベルできれば問題ありません。必要な分野のことだけ勉強して、その他はどうでもいいといった姿勢で問題ないでしょう。
海外のひとを相手に物を売る場合においては専門書で勉強すればいいだけですし、むしろそれすら自分でできないと先がありません。
どこまでの範囲が必要なのかを自分で考えたり調べたりして、必要なことだけ勉強という姿勢でいいように感じます。
情報収集については、言語空間のちがいによるハンデが存在するため、こちらも専門的な英語を学ぶのは最低限となっています。
日本語では見つからない情報も、英語で探すとほんの数秒で見つかったりするので、英語による情報収集ができないと「公開情報を生かせない」なんてことになりかねません。
ついこの間も、英語で検索かけたら一瞬で解決するということがありました。
プログラミングで困っていて、日本語の文献には欲しい情報がない
↓なら英語で検索かけるか
↓
速攻で解決
このようなことが日常的にあるので、英語で情報収集するというのは欠かせません。
英語は特別なのか
上記のように、英語が使えるというのはたしかに不可欠なことではあります。
だからといって、英語に過剰に取り組む必要はないでしょう。
不安を煽ってくる業者に乗せられているのと何ら変わりありません。扱うものが「勉強」「英語」といったきれいなものに変わっただけで、本質的にはアヤシイ情報商材と同じです。
何度もいいますが、英語というものは特別なものではなく、ただのツールです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
英語やプログラミングの必要性が騒がれていますが、本当に必要なのは稼ぐ力というごく基礎的なものの方でしょう。
ノウハウや高度な技術の必要性については今にはじまったことではありませんし、100年以上前から言われ続けているはずです。
もっといえば、その基本的なものがなければ英語も活かせません。
道具を扱う体があるから道具を使えるのであって、道具単体では何の意味もないのです。
英語をことさらに強調したり勉強しようというのはある意味でアンバランスな考え方であり、土台そのものが軽視されています。
英語が大切といわれる原因
わたし自身はこんな考え方ですから、英会話教室に通ったり資格勉強にいそしむひとたちがマジメに見えて仕方ありません。
自分からすれば英語はただの道具という認識ですが、大衆からすれば夢と希望にあふれたチート装備なんでしょう。
ただの道具と神がかり的な存在とでは大きなちがいがあるわけで、それによって熱意そのものもちがってくるのです。
自己啓発においては自己投資の重要性が叫ばれますが、そこでの自己投資はあくまでもひとに認めてもらうためのもの。
同じ自己投資でも、資格のために頑張るのと稼ぎ方を覚えるのとでは意味が全然ちがいます。
資格勉強というのは所詮は使われる側の考えであり、認めるひとがいなければ成り立ちません。あくまでも誰かに認めてもらうためのものであって、ゴマすりと似ています。
そのような考え方ではひとを使う側にまわることはできないでしょう。
資格を取るのではなく作る側にまわらなければ搾取され続けるのです。
その一方で稼ぎ方を覚えるというのは、本質的な意味での自己”投資”です。
投資である以上は何らかのリターンがあるはずであり、投じたお金と時間で稼げるようになるというのはそれにあたります。
資格を作って評価する側の人間になるなんてのはその典型であり、まさにひとを使う側の考え方です。
このような考えを持っていることからも、勉強そのものが目的化しているパターンについてわたしは冷めた視点からしか見れません。
世の中でいわれる自己投資の大半は誰かに評価される系の話であり、評価する側になる場合については自己投資そのものの内容も自分で考えなければならないのです。
結局のところ、英語への過剰な期待は自己投資が持ち上げられるのと同じものであり、あくまでも商売のための風潮です。
英語を認めてもらうためのものではなく、単なる情報収集のツールとして使ってみるとそのことが感覚的にでもわかるでしょう。
一般にいわれる「英語が重要」というのは使われる側の考え方であって、ドライになれなければそのちがいには気づけません。
まとめ
英語に対してアツくなるのは、それほど英語への盲信があるからでしょう。
その背景には「どこかで役に立つ」のような期待や「TOEIC○○点取れば認めてもらえる」といったものがあり、ツールや商材として割り切る考え方はめずらしいです。
わたしとしては、そこまで特別視する必要はないように思います。
英語での情報収集で問題解決がパパッとできるのは経験しましたが、かといってそれが原因で問題集に手を出すということはないでしょう。その分のリソースは他のところに充てます。
勉強にもコストがかかるというのを考えれば、そこまで楽観的な見方はできないはずです。
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