前回に引き続き、震災で稼ぐことをテーマに書いていきます。
震災では損するひとがいる一方で、得するひとがいるのも事実。
残念ですが、これが現実というもの。
前回書いた物資販売はその一例にすぎず、実際には数えきれないほどの業者が得をします。
土木関連はその代表例ですし、葬儀とその取り巻きも仕事が激増。
つまりは震災によって仕事が生み出されるわけで、それによって利益を得ているひとも存在します。
考え方によっては、一部の職業は自然の力によって成り立っているでしょう。
自然が破壊を引き起こし、それによって食べていくことができる。
そのような職業が存在するという事実は無視できません。
自然災害が仕事を生む
皮肉なことに、自然災害が起きることで仕事が生まれる。
そしてそれにより儲けるひとがいる。
自然には災害を引き起こすおそろしい力がある反面、そのように特定の人間を儲けさせるという力まで持っています。
もしこの世から災害がなくなる技術ができてしまったら、一部の人々からは反発待ったなしでしょう。
彼らの仕事がなくなってしまうのですから。
既得権益が騒がないはずがありません。
自然災害により建物が壊れることで、土木工事の需要が生まれます。
工事に従事するひとは、自然を相手にした場合頭が上がらないことでしょう。
仕事を与えてくれた自然に対して、頭が上がらないはずです。
土木工事だけじゃない
震災で得をするのは工事関連だけではありません。
葬儀およびそれに関連する花屋などは当然のように仕事がありますし、震災婚をはじめとして結婚関連もこれまた仕事だらけです。
震災後は震災特需ということで、かなりの商機が生まれます。
まさに変化はチャンスで、商売するひとはみんな狙っている。
時がくるとここぞとばかりに仕事に邁進します。
変化がチャンスであることは別に地震でなくても同じです。
新技術の導入によって流れが大きく変わる、テロでみんなが怯える、etc…
あげればキリがないでしょう。
何かが大きく変わるときというのはビジネスチャンスであり、攻めた人間ほど得をします。
混乱や変化が大きいほど、得られる利益も大きい。
別に震災だけでなく、新しいサービスの登場など、よく見れば似たようなのがたくさんあります。
ことの本質を見抜き、自分で考えて行動できるか。
これができるのとできないのとでは雲泥の差です。
誰かが損をすれば、別の誰かが得をする
上記の内容は受け止めるのがつらいでしょう。
しかし事実であることに変わりはありません。
誰かが損をすれば、別の誰かが得をする。
それがこの世界の性質です。
当然、この逆である「誰かが得をすれば、別の誰かが損をする」というのも成り立ちます。わたしたちが生きる以上、この性質からは逃げられません。
ベンチャー企業によって取って代わる製品が生み出されれば、それまで儲けていたひとたちは被害を受けます。
それまで売れていたものが売れなくなってしまうのですから。
新しく出てきたベンチャー企業が、既得権益から顧客を奪い取るのです。
震災で建物が壊れれば、工事の必要性が生じます。
それは自然災害という大きな事件によって損をしたひとがいたからであり、災害が起きなければそこまでの需要も生まれません。
この世は完全なゼロサムゲームでないにせよ、それに近い性質を持っています。
それを受け止めずしてやっていくことは不可能。
現実を理解する第一歩として、まずはこの事実を受け入れなければなりません。
自然には逆らえない。色んな意味で。
結局のところ、わたしたち人間は自然というものに対しては逆らえません。
それは単に多数の死者が出るという点だけではなく、仕事が生じるという意味でも逆らえないのです。
自然災害という大変化が仕事を生む以上、それによって食べているひとがいるのも事実。ゆえに自然というものをバカにすることはできないのです。
変化のあるところ、商機あり。
ネガティヴあるところ、商機あり。
これは一見すれば「ひとの命で飯を食うな!」と反発してしまいそうな言葉ですが、同時にそれによって生活しているひとがいるということも表します。
震災を死者が出るという視点以外から見ることで、別のことにも気づけるでしょう。
ある一面だけでなく、さまざまな視点から見ることで気づけることというのもあるのです。
まとめ
いくら技術が進歩しても、所詮わたしたちは生き物。
自然というものから逃れることはできません。
技術がいくら進歩しようとも、自然の影響下にあることは変わらないでしょう。
生きるも死ぬも、自然はすべてをコントロールできるのです。
震災というのはたしかにおそろしいです。
しかしそこから何も学べなければ、進歩するということもありません。
怖いで終わってしまってはダメで、人々の考え方だとか自然の影響力だとかを学ぶべき。
そのような反省がのちの自分を救うかもしれません。