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「5年後10年後、あなたはどうなっていますか?」
就活における鉄板の質問のひとつ。
これについては専門性を云々、上司として云々というのがテンプレ解答でしょう。
しかし、わたしはそのような考え方に対して危機感すら感じます。
5年もあれば大きく変われるのに、今の自分がハッキリと認識できるというのは、そこまでの成長ではないからです。
質問する側もされる側もやらされてる感MAXの質問ですが、ここではあえてマジレスしてみました。
目次
予測できるぐらいでどうする
5年後10年後が明確に予想出来てしまう場合、それは今の自分からさして変わらないということになります。
すなわち今の自分がハッキリと認識できてしまうぐらい、未来の自分は成長していない。
その程度でどうしろというんでしょうか。成長がないとしかいえません。
自分の分野や仕事について必死で取り組むのであれば、5年後なんてまずわかりません。
1年間必死にやっただけでも予想がつかないぐらいに変われるのに、どうして5年後がわかるというのでしょうか。
今の自分から予想がつくぐらいでは、そこまで大きな変化とはいえません。
あなたにも5年後が予測できなかった経験はあるはずで、大学や社会人なんてその典型。
高校1年生の頃のあなたは、就活している自分をイメージできたでしょうか?
おそらくはできなかったはずです。
それほど成長というのは大きく、5年後の自分なんてのはイメージできないものなのです。
予測できる自分は、成長していない自分
5年という時間が経ったときの自分が予想できるのは、成長しませんよと言っているに他ならない。
現段階の自分が予想出来てしまうのは、成長しないのと変わらないのです。
日々本気で生きている人の成長速度は、普通の人とは比べ物になりません。
大半の人がのほほんと時間を使うなか、何かに必死で打ち込む人は数倍早く成長します。
さらに掛け持ちをして忙しい状態では、成長速度は10倍以上。人間関係におけるノウハウから専門的な技術まで、急速に成長していきます。
そんな状態で5年という時間を過ごせば、見える世界はかなり変わります。
傷ついて失敗しまくって育った人には、レールに乗って失敗していない人の何倍も多くのチャンスが見えます。
見える世界が変わるという、価値観レベルの成長がある以上、5年後の自分を予測するのは愚問。
「今の自分が考える将来など大したことない」と認識することが重要です。
朝令暮改で当たり前
成長という点では、「朝令暮改」という考え方も大切です。
本来はコロコロと変わるルールのダメさ加減についてのものですが、成長という考え方と合わせた場合、非常に重要な考え方となります。
朝令暮改をルールではなく成長に当てはめた場合、「今日の自分と明日の自分は違う」ということになり、これを地で行く成長の仕方ができれば大物になるのも不可能ではありません。
1日1日の変化が激しい人が365×5=1825日も成長し続けた場合、成長の大きさは計り知れません。
本気で打ち込んでいれば、朝令暮改なんて当たり前なんです。
1年後どころか1ヶ月後すら予想できない。1日ごとにフィードバック。
本気度があれば、これぐらいは普通なのです。
成長が楽しめる人間にとって、1年後の自分を予想するのは不可能。
変化を楽しめる体質ゆえ、新しいことにも好奇心旺盛でどんどん飛びついていきます。
そうして寝食わすれて没頭している場合、変わらないとこのほうが少ない。
先が見えないことが楽しいぐらいです。
いい意味で先が見えない
もし仮に5年後の自分がわかるとして、ワクワクするでしょうか?
全然おもしろくないですよね。5年後の自分という「上限」が見えているのですから。
将来の自分が見えている、あるいは認識できるというのは、それ以上変化が望めないということ。
すでにわかりきっている人生を送ることに、何の楽しみがあるのでしょうか。
わたしにとって、未来が見えてしまうことは絶望以外の何物でもありません。
未来はわからないからこそおもしろいのです。
「5年後10年後、あなたはどうなっていますか?」という質問は、キャリアパスとの一致や入社意欲をはかるためのものでしょう。
しかしながらこの質問をマジメに考えた場合、自分の人生そのものを考えることになります。
もしそこで未来の自分がハッキリと認識できるようであれば、それだけ変化のない人だということ。
そのような人が自分から動いて仕事をするなどありませんし、リーダーシップを期待するなど無理があります。
まとめ:5年後の自分なんてハッキリしていない方がいい
5年後の自分が輪郭までハッキリと思い描けるのは、それだけ成長しないということです。
5年後の姿の輪郭なんてぼやけているほうがいいですし、今の自分がイメージできないぐらいでちょうどいいのです。
未来がわかるというのは、パンドラの箱そのもの。
パンドラの箱については諸説ありますが、未来がわかることの絶望感についての説もあります。
未来の自分がわかってしまった場合、決まりきった「一定」の未来しかなく、代わり映えのしない日々を過ごさなければならないのです。